ほんとのほんと

一浪&三留したアラサーダメ人間が社会と自分とのギャップに半笑いで半ば諦めながら立ち向かって(?)ゆくブログ。  精神年齢は最近19歳になった。

答えのない世界

 

積読本を消化しようと何気なく手に取った一冊。

いま世界の哲学者が考えていること

いま世界の哲学者が考えていること

 

タイトルの通り、昔の偉大な哲学者でなくて、現在の哲学の潮流を紹介してくれる本だ。

まだ第1章しか読めていないが、その中で非常に胸に刺さった箇所がある。それは、20世紀後半の「ポストモダン」の哲学の考え方。ざっくりいうと、「真理はどこにも存在しない」という考え方だ。

 

それまでの哲学は、万人が認めるような真理や規範を追い求めていた。けれど、実際にはそんな「絶対的な真理」などないのだ、という。

この世界は、言語によって構築されている、らしい。(言葉があるから世界を認識できる、という意味だと思う。これを言語構築主義と言う) となれば、言葉が違えば見えている世界、つまり現実は異なってくる。ということになるらしい。

言葉が違えば「真理」も違う。歴史や文化が違えば「善悪」も違う。すべては相対的なもので、つまり「真理はどこにも存在しない」ということになる。

 

それは寄る辺がないということだ、とわたしは考えた。

その考えを突き詰めれば、人それぞれ育った環境や時代が少しずつ違うのだから、「本当に正しいこと」は各々異なるということにならないだろうか。わたしの「真理」は、わたしの外部にはどこにもないということにならないか。正しさの判断を誰にも頼れないということにならないだろうか。

 

いや、わかってはいた。そんなもんだと。わかってはいたけれどあらためて認識すると少し怖いしかなり心許ない。

以前も書いたが、わたしはいつも心のどこかで「絶対的な唯一の解決策」「今すぐ白黒つけてくれる答え」を探してしまいがちな人間だ。 honto-no-honto.hatenablog.com

たとえば、高校の倫理の授業でプラトンイデア論を習ったとき、とても心惹かれたのを覚えている。

それはこの世界に(正確にはこの世界の形而上に)、絶対的な『正解』がある、と言う考え方だとわたしは解釈した。

なんて安心なのだろう、と思った。

どこかに確固たる正解があるのなら、わたしたちは、世界は、それをただ純粋に追い求めれば良いということになる。

どこかに「善のイデア」があって、「正しさのイデア」があって、「美のイデア」があるのなら、それへ少しでも近づこうとする努力によって、わたしたちの人生は、そして人間の営みは、すべて肯定される。

そんな風に思った。

 

でもそんなものはない。絶対的な正しさなど。ないから、ひとつずつ自分で探していくしかない。

しかも、探して、見つけたものを、「それが正解だ」と丸をつけてくれる人などいない。「正しいかどうかわからないがひとまずこれを『正解』としておこう」と保留にしながら見つけた答えを拾って、また次へ進む。その繰り返しで「わたしにとっての現実」がようやく成り立つ。仮の“正解”はいつまでも保留のままである。

 

途方に暮れてしまう。あるのは圧倒的な孤独。

この世界が向かうべき「正解」があると信じてそれを探しながら、想定される「正解」に向かって歩みを進めていくのと、どこにも「正解」などないと知りながらそれでも何かにつけて「正しさ」を求められ、その都度「正しそうなもの」をとりあえず選んでふらふら彷徨い続けるのと。

後者のほうがしんどい。心許ない。誰もわたしに丸をつけてくれない。誰かの答えに丸をつけてあげることもできない。荒野の中で、ゴールのない、コースすらないマラソンを走るよう。

 

想像すると寂しさで押しつぶされそうだ。

誰とも答え合わせができないのだ。この先ずっと、どこまで行っても。

ひとりぼっちの旅が続くだけ。

 

 

 

本はまだ第2章を読み始めたところ。2章から先は、ポストモダンのその後、現代の哲学の考え方が紹介されていくようだ。

けれど、どこまで読んだって、もうどこにも「真理」はないのだろう。

でもそれでも読んでしまう。わたしとは、人間とは、世の中とは、世界とは、現実とは何かを知りたくて。

どこにも絶対的な真理などないことに気づいていながら、それでも探してしまう。本の中に、仕事の中に、誰かとの会話の中に、そして自分自身の思索の中に。

 

それがきっと、死ぬまで続く。答えなどないとわかっていてもやめられない。それがわたしの性なのだ。これは間違ってはいないだろうかと、常にびくびくしながら、恐る恐る、歩みを進める。