ほんとのほんと

一浪&三留したアラサーダメ人間が社会と自分とのギャップに半笑いで半ば諦めながら立ち向かって(?)ゆくブログ。  精神年齢は最近19歳になった。

ホキ美術館で写実画を見たので感想を

先日、ホキ美術館に行ってきた。

 

写実画ばかり展示している美術館。

人物画、風景画、静物画、いろいろあったがどれも一瞬写真かと見紛うほどリアルで精緻な絵だった。

久々に、純粋に絵に対して「あ、いい」とときめいたのでちょこっとだけ記録しておく。 

hoki-museum.jp

 

一見写真のよう、でも写真じゃない。

去年、原美術館でやっていた篠山紀信の写真展なんかも見に行ったが、それよりもこっちのほうがわたしは心を動かされた。(テイストが全く違うので比べるのはおかしいのだけど)

 

写真と写実画と、何が違うのだろうと考えてひとつわかったのが、写真には必ず被写体があるということ。

原美術館で見たのはヌード写真だったけれど、人物を撮った写真なら、たとえモデルの顔が見えないような角度で撮られていたとしても、彼女(彼)は確実にそこにいるのだ。生々しい人間が、カメラマンの意思を越えて直接鑑賞者に存在を主張してくる。良くも悪くも。わたしにはそれがどうにも邪魔だった。

 

しかし絵はそうでない。どんなに写真のように精密に描かれていても、もしかしたらそれは現実には存在しないものや人かもしれないのだ。

だからモデルの個性は消えて、ただ作家が美しいと感じたものだけがそこに現れる。

 

それが、わたしがときめいた理由だと思う。だって、わたしもいつも見ているのだ。とても美しいものを。友人のふとした表情とか、電車の窓から見えるごちゃごちゃした街の向こうの富士山とか、ちょっとスカートが翻った時のその角度とか、仕事帰りになんとなく振り仰いだ空の色とか、たまたまエレベーターに乗り合わせた女性の、ストッキングに包まれた若い脚とか。

 

でもそういうのは写真には写らない。何の変哲もなさすぎるし、第一いらないものが写りすぎる。いや、本当に上手な人ならちゃんと表現できるのかもしれないけれど。でもだいたい、綺麗に見えた友人も写真に撮ってみればたいした美人ではなかったりするし、汚い街並みの向こうにちょこっとだけ顔を出している霞んだ富士山は、自分の目で見ているとき以外美しくは見えないと思う。

 

人間がものを見るとき、写真のようには見ていなくて、たいてい、見たいものを見ている。ふと何かを見て「ああ、綺麗だな」と感じるとき、わたしはその「ああ、綺麗だな」と感じた印象だけを見ている。友人の横顔を美しいと感じるとき、わたしはその友人を見ていない。彼女の性格がいいとか悪いとかどうでもよくて、ただ美しい光と形を見ている。

 

その感覚と、今回ホキ美術館で写実画を見て感じたものが、とても似通っていたのだ。

極限までリアルに描かれた絵からは、却って対象の存在感は薄れて、作家の理想が出現し、彼らが現実の奥底に見た「美そのもの」とかそういうものが色濃く立ち上っていた。だからわたしは安心して、立ち現れた「美」だけを眺めることができた。そのことが何だか、共感を得たような気持ちにさせる。わたしは安堵し、懐かしいような気持ちになった。

 

 

もちろん、美しさを追い求めた絵だけではなかったけれど、やっぱり単純にきれいなものがわたしは好きなので、「とにかく美しい」絵しかあまり記憶に残っていない。

現代の絵画には、「思想」とか「哲学」がいつもついて回る印象があるけれど、ホキ美術館で見た絵には、そんなもの関係なくただ純粋に「美しい」を追い求めたような作品がたくさんあったのも、楽しめた要因の一つだと思う。

 

 

帰りに、裸婦画のポストカードを一枚買った。

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美術館の建物自体も素敵だった。

ギャラリーは湾曲した細長い回廊のようになっていて、そこに展示された絵を一枚一枚眺めているうちに非日常の世界に入り込んでいけるかのようだった。

 

良い時間を過ごせた。

今年中にまた行きたい。