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ほんとのほんと

一浪&三留したアラサーダメ人間が社会と自分とのギャップに半笑いで半ば諦めながら立ち向かって(?)ゆくブログ。  精神年齢は最近19歳になった。

吉田篤弘『おるもすと』(ネタバレを含みます)

「もうほとんど何もかも終えてしまったんじゃないかと僕は思う。」

 

そんな書き出しで始まるこの小説は、とてもさびしくてさびしくて、そしてとてもきれいで、登場人物は誰も泣いていないのになぜか読んでいるわたしが泣き出してしまいたくなるような本だった。

 

読み終えたとき、わたしはどこか別の物語でこの主人公に会ったことがあるような気がしていた。彼はきっと数知れない物語に登場している。ひどく孤独で、でもその孤独に気が付いていなくて、少し無能で、小さな小さな世界で暮らしている。

現実の世界にもきっといる。こんなさびしい人が。彼に会いたいと思った。さびしさを分かち合えればいいと。けれど、でこぼこしたリアルの世界で、そのでこぼこに躓くたびに泣いたり笑ったりして(主に泣いている)暮らしているわたしと出逢うことは、たぶんきっとない。

 

www.setabun.or.jp

 

吉田篤弘著『おるもすと』。装幀はもちろん、クラフト・エヴィング商會である。

この作品は、「本との接し方の原点に立ち戻る」という趣旨で企画された「金曜日の本」というレーベルの、第一弾となる本だそうだ。1400冊限定ということなので一般の書店では手に入らないかもしれない。

活版印刷で作られているから、ページをめくると普通の本にはない温かさを感じる。ときどき文字がずれていたりインクが濃くなったり薄くなったりもするけれど、それゆえに一ページずつ丁寧に作られているのが感じられ、なんだか安心する。でも、それは少し切ない安心かもしれない。もうとうの昔に廃れてしまって、世界から忘れ去られようとしているものを、大切に守っている人たちがいるというのは、それだけで少し切ないからだ。

 

 

 

物語の主人公は、崖の上の傾いた家でひとり暮らしている。

崖下には墓地が広がり、彼はときどき、墓石を数えたりして過ごしている。

 

はたから見るととても寂しい暮らしだが、彼は寂しそうに泣くこともなく、淡々と生活を送っている。たぶん、自分の感情を感じることすらも「ほとんど終えてしまった」からだろう。感情を失くしたわけではないようだけれど、きっとそれを感じる必要がなくなってしまったのだ。

もし祖父がまだ生きていて自分が街で暮らしていたら、などと想像して空想を愉しむことはするけれど、これからの自分の将来を見つめることはしない。こうなりたいという希望も、あるいは将来に対する不安や諦めも、彼は持っていない。

 

印象的なシーンがある。

誰もいないパン屋の店の中から、小さな窓越しに道行く人を眺めるシーン。そのシーンはあまりにも静かで、彼は、死後の世界から現世を眺めたらきっとこんな風だろうと考えるのだが、それがまるで、彼自身がすでに生きることを終えてしまったことを表しているかのようだった。その無音が、とても美しく感じた。

 

 

物語は、大きな事件も起こらず、何も解決しないままで終わる。まだいくらでも、何通りでも続きが書けそうなところで終わるのだ。

ただ、最後に彼は、傾いた家の取り壊しに同意する書類にサインをしてしまう。

物語のはじめのほうで、「祖父がまだ生きていれば、僕はどうにかして街の方にしがみついて、街灯や雑音に囲まれて暮らしていただろう」と主人公は考えている。だからその祖父から譲り受けた家を取り壊すということは、もしかしたらよりいっそうさびしい生活が始まることを意味しているのかもしれない。しかしもしかしたら反対に、これを契機に、街にしがみついて雑音に囲まれる日々が始まるのかもしれない。

もし後者だとすると、今後主人公は再び感情を感じることを取り戻し始めるかもしれない。仲間と働くことに喜びを感じたり、一人暮らしの生活にさびしさを感じたり……。そんなことを思った。でもその生活は、喜びを感じることよりも苦痛を感じることを多くしてしまうかもしれない。そんなことを同時に考えてしまい、さびしくなって本を閉じた。

本当にきれいな物語だった。

 

 

ほんの70ページに満たない小さな作品だった。

けれど、わたしはたぶんこの先、何度もこの本を読み返すだろう。

前回の記事で、自分はいま挫折の途中にいるのだということを書いたけれど、「途中」にいる限り、きっと何度でも、縋るように読み返すと思う。

 

honto-no-honto.hatenablog.com

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