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ほんとのほんと

一浪&三留したアラサーダメ人間が社会と自分とのギャップに半笑いで半ば諦めながら立ち向かって(?)ゆくブログ。  精神年齢は最近19歳になった。

サラムドゥル仲間募集中!

日常

サラムドゥルという遊びを知っているだろうか?

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     「恋のこと?知っているとも。それこそ一ばん美しいものだよ」

         本当は、どっちなのだろう

          「ごきげんよう」

        この反応はまるで解しがたい。

      「しまった」という顔をして私を見返した。

    普遍の存在 もう一人の僕が、はるか高い場所から僕を見下ろしている。 

         一人も見つからない。

      未来にも、そして過去にも幽霊の行き場はないのだ。

            「いなかった」

 さんざてこずらしておいてからふいに顔をあげべろっと舌を出して ああいい気味だ

          笑い続けている

 

 

 

この遊びは3,4人で行う。(2~6人くらいでもできなくはない) 

まずは、ゲームの準備。

ひとりひとり好きな本を持ち寄って、任意のページをコピーし、それを単語ごと、文章ごと、好きなように区切って小さな短冊にする。

短冊がたくさんできたらチーム全員分の短冊をシャッフル。

そこから今度は一人10枚ずつ好きな短冊を選び、これを自分の手札とする。

ここでのコツは、長い札から短い札まで、一文まるごとのものから文章のつなぎ目のような札まで、バランスよく選ぶことだ。

これで準備は完了。

 

ここからがゲームの始まり。

白い紙皿を用意し、札を出す順番を決める。

1番の人から1枚ずつ順々に、自分の札を皿の上に置いていく。

2番目の人は、1番の人が置いた札の前かうしろに、文章がつながるように言葉を置かなければならない。

3番目の人は、2つの短冊の、前かうしろにつなげるように置く。

 

こうやって、言葉をつないでいって、だんだんと文章をつなげていくのだ。

3順か4順したら皿がいっぱいになるだろうから、手札を並べるのはやめ、つないだ文章を読み、そこに綴られた言葉の意味を解読していく。

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わたしはこの遊びを、とあるイベントのワークショップでアーティストの永岡大輔さんという方から教えてもらった。どうやら彼の考案したゲームのようだ。

(調べてみると、「サラムドゥル」は韓国語で「人々」という意味らしい。

「人々」が集まって「さら」に言葉を並べていくから、「サラムドゥル」なのだろうか。)

 

壁に並べてあった知らないだれかの作品を見て、おもしろそう!と感じ、一緒に来ていた仲間とわいわいと参加させてもらった。

地味だけれど、これがなかなか面白い。

 

バラバラの本から抜き出したつながりのないページの言葉を、さらにバラバラに解体してあるのだから、どうしたってうまく言葉はつながらない。

それを無理やり、

「あっ、この主人公は今こういう状況なのかな?」「もしかしてこれまでこういう背景があって、これからこういうことをやろうとしている……?」

とたくさんたくさん考えて、解釈して、

「もしかしてこういうことかな?」

「いやいや、こうじゃない?」

と想像して、膨らませて、言葉を並べていく。

だから一枚の皿に収まるほどのほんの短い文章の中に、その何倍もの「可能性」が生まれるのだ。

 

一読して意味のつかめない言葉の羅列は、つまりは「こういう意味かもしれない」という可能性の塊りなのである。

 

可能性。

 

わたしがこの世で一番好きなものの一つ。

なんでもそうだ。わからない方がいい。

 

広くてまっすぐな道より、曲がりくねった細い坂道のほうが好きだ。どこへつながっているかわからないから。わからなければ、どこまでも想像を膨らませられるし、想像を超えたものにも出会える。

常識的で単純な人より、ちょっと読めない人に惹かれてしまう。

スケジュールの決まったツアーバスに乗るよりも、ぶらり途中下車の旅に憧れる。

わからないものが面白い。

 

サラムドゥルもそれと同じなのだ。

もともと別の場所に会った言葉を切り取って適当に並べただけなのだから、そこに誰かが込めた意味などない。けれどだからこそ、想像を超えた場所につながっている気がする。

短冊のひとつひとつが、どこにつながるかわからない可能性を、何万通りも有している。そしてその「可能性」どうしをつなげるたび、まるで奇跡を目の当たりにしているような驚きとわくわくがあるのだ。

 

 

あまりにワクワクしたので、滅多にないくらいわたしははしゃいで、「これ、家でも出来そう! 今度やろうよ!」と仲間たちに言ったのだった。

 

……が。

その「今度」がいつまでたっても来ない。

 

ワークショップでは確かにみんな楽しんでいたけれど、日常の中でわざわざそんなことに時間を割きたいと思うかどうか、自信が持てなくてなかなか誘えない。

 

わたしはもともと読書が好きだし、作文も好きだし、小学生のころから童話コンクールに作品を応募していたくらいだから、こういうものは大好物だけれど、どれほどの大人が、こんな遊びを積極的にやりたいと思ってくれるか……ちょっと自信がない。

 

でも楽しいと思うんだよ、これってけっこう「大人の遊び」だと思うのだ。

洒落た間接照明のある部屋で、上質なソファに座ってワイン片手にサラムドゥルをやるのって、結構サマになると思うのだ。

 

仕方ないから一人でやってみた。

上の写真がそれである。

 

たしかに一人でやっても、それなりに楽しめる。

自分の本を何冊か選んで、コピーして切って、札を並べて意味考えて……。

けれど、どれも自分が読んだ本であるため、ああ、この文章はあの小説のあの一節だな、というのがわかってしまうし、自分で考え付く解釈以上のものはうまれないしで、ワークショップに参加した時ほどの面白さはない。

 

ああ。

だれかいないかしら。

サラムドゥル一緒にやってくれる人。

 

なんなら短冊はこちらで用意しておくよ。

うちにはエッセイ、ビジネス書、物理学の新書から、純文学、ミステリー、ファンタジーと、たいていのジャンルがそろってる。お好みのジャンルから1,2ページ選んでおきましょう。

洒落た間接照明も上質なソファもないけどさ。

いや、落ち着いたバーや居酒屋の隅っこの席なんかの方がちょうどいいかもしれないね。

 

そうやって酒場に集まって、1,2時間酒を飲みながら遊んで、パッと帰る。

そんな仲間がいたら人生楽しいだろうなあ、などとちょっと思うのだ。