ほんとのほんと

一浪&三留したアラサーダメ人間が社会と自分とのギャップに半笑いで半ば諦めながら立ち向かって(?)ゆくブログ。  精神年齢は最近19歳になった。

ひとりぼっちのクリスマスは

最近何度かデートしていた相手が、実は彼女がいますというので、今年のクリスマスも例によっておひとりさまである。

 

去年もこんなだったな。

去年の相手は今の時期、病気をして時短でしか働けなくなっていたくせに「その日は仕事が入って」と見え見えの噓をついていた。

 

まったく、わたしの顔に「真剣に向き合う必要ありません」みたいなことが書いてあるとでもいうのだろうか。

……そう、多分書いてあるのだろうな。どんなに表面を取り繕っても、地に足がつかない無責任な感じが全身から滲み出ているに違いない。寂しい人付き合いしかできないのは、わたし自身が寂しい人間だからだ。

 

 

昨日の23日は都内のランニングのイベントに参加していた。

東京マラソンのコースを歩道側から試走してみようというイベントで、実に7時間近くもの間、マラソン好きの人たちと一緒に、ぺちゃくちゃとおしゃべりしながら東京のど真ん中を走るのは本当に楽しかった。同じようなことをしている集団と途中何度かすれ違い、そのたびに「こんにちは」「おつかれさま」と声を掛け合った。こんな時期なので、中にはサンタコスをして走る集団もいて、「メリークリスマス」だなんて、東京の街中でぜんぜん知らない人たちと、そんな風に手を振りあうのも面白かった。

 

日比谷にある自転車利用者向けの施設でシャワーを浴び、ぷらぷらと東京駅に向かって歩いていると、ちょうどティファニーの前の交差点を渡ったところで17時30分になり、シャンパンゴールドのイルミネーションが一斉に灯いた。

そこら中から歓声が上がった。道行く人はみんな温かい笑顔だった。

ビルの窓ガラスにも光が反射してそれはそれは美しく、ああ、いいクリスマスだな、などとニコニコしながら家路についたのだった。

 

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土日ともに予定がない週末は久々で、せっかくだから心ゆくまで贅沢なほど休んでやろうと考えた。泥のように眠りたくて、目覚ましやアラームを全部切った。体はへとへとに疲れていたが頭が冴えてしまっていたため、数か月ぶりに引き出しの奥からアレルギーの薬を取り出して少し多めに飲み、副作用で眠くなるのを待った。

 

昼過ぎにドアチャイムの音で目が覚めた。

郵便屋さんが本を持ってきた。数日前にアマゾンで注文していた古書だ。誰かが読んだ痕跡があるのがうれしくて、最近は好んで古本を買ってしまう。

全国のいろんな古書店から送られてきたにもかかわらず、今日まとめて届いた。全部で16冊。ボーナスが出たら買おうと思ってずっと欲しいものリストに入れていたものを、このあいだ一気に注文したのだ。12月24日。図らずも自分へのクリスマスプレゼントになった。

 

いそいそと一冊ずつ包みを開く。自分で注文したくせに何を買ったか忘れていて、あ、こんな本もある、と開けるたび嬉しくなった。どれを一番に読もうかな、などと悩む必要はなかった。『それからはスープのことばかり考えて暮らした』。このブログでも何度か言及した吉田篤弘さんの本。ひとりぼっちのクリスマスに読むには、彼の本はきっと最適だろう。

何か甘いものでも飲みながら——そう思って冷蔵庫を開けると、3日前に同僚の女の子たちを招いてやったクリスマス会のお酒が何本か残っていたのでそれを開けた。甘いお酒を。

Youtubeでクリスマスソングを流しながら物語に浸る。

登場人物たちはみんなあたたかいのにどこかさびしみを持っていて、こんなわたしでも無理なく迎え入れてくれた。最後のページにスープのレシピが載っていて、真似したくなった。が、残念なことに普段自炊をしないわたしの冷蔵庫には、実家から送られてきたみかんとりんごしかない。りんごでもスープが作れるかしら。明日試してみようと決める。

それからはスープのことばかり考えて暮らした (中公文庫)

それからはスープのことばかり考えて暮らした (中公文庫)

 

 

 

昨日職場の先輩から、「年明けの休みに一緒に美術館へ行かないか」とお誘いが来ていたから今日返事をしたのだけれど、何時間たっても既読すらつかない。きっと彼にも今日を一緒に過ごす本命の彼女がいるのだろう、などと考えてしまう。

きっとわたしは、来年も再来年もクリスマスはひとりだ。

 

 

先日知人と話して言われたことを少し思い出す。

映画好きの知人に誘われ、いま恵比寿ガーデンシネマでやっているスモークという20年ほど前のアメリカの映画を見てきたときのこと。その知人とは前にも一度書いた、昔のバイト仲間だ。(たまには常識の箱をひっくり返してみる - ほんとのほんと

 

映画の帰りに渋谷の居酒屋で3時間ほど話をした。

彼の若かった頃の話とか準備中の事業の話とか奥さんとの馴れ初めとかをひとしきり聞いたあと、会話の流れで、デートをしていた相手に彼女がいたのだとわたしが話すと、

「別にその人もしゅうさんのことを騙してやろうとか都合よく遊んでやろうとか思ってなくて、しゅうさんと会っている間はその時間を大切にしてると思いますよ」

と言うから笑ってしまった。まあそうでしょうねとしか言いようがないし、普通の女の子の感覚がわからないので何とも言えないが、そういうのを世間では「都合がいい」というのではないか。

 

しかし彼は、「俺も20代のころは彼女とかほとんど作らなかったし、ちゃんと付き合う必要はないと思うけど」と言いつつ、「いつかしゅうさんにも、この人と結婚したいと思える人ができるといいですね」と言った。

まさか彼のような、王道とは程遠い人生を歩んできた人にそんなことを言われるとは思っていなかったし、彼には言わなかったけれど今回わたしは人生で10年ぶりくらいに本当に恋をしていたので、そう言われてなんだか切なくなってしまった。

でもだからこそわたしはその言葉を、心の中に大事にしまった。

 

 

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アクアラインマラソンを終えて(備忘録)

最近日常が目まぐるしい。

生々しすぎて文字にできず、却ってブログに書けることがないので、書こう書こうと思いつつ先延ばしになっていた、10月のアクアラインマラソン(フル)を走った感想でもここらで書いておこうと思う。

 

2年後にまたエントリーするときのためのわたし専用備忘録な内容なので、あまり面白味はないと思う。写真も撮っていないことだし、できるだけ簡潔にただメモをするのみ。

 

 

 スタートまで

10月23日。最高気温は20度を超えるようだったので半袖のウェアで臨む。ポケットにはミニサイズの金のアネッサを忍ばせて。途中塗りなおすつもりだ。最愛の肌は何が何でも守るべし。

 

さて。7:44木更津着の臨時電車で到着。

ここから荷物預かりや更衣室のある会場まで徒歩20分程度。女子更衣室は体育館のようなところで、わりと広々していた。館内のトイレは30分待ちだったが、仮設トイレはあまり使いたくないので仕方がない。

9時ごろには会場をあとにし、スタート地点を目指す。スタート地点までまた徒歩で2,30分あるのだ。

スタート地点にも大量の仮設トイレが並んでいたが、ここも長蛇の列。

トイレは更衣室のある会場で済ませてからスタート地点へ向かうか、早めにスタート地点へ行ってトイレに並ぶか、どっちかだな。いずれにせよ、トイレのために30分見ておかなきゃならない。

 

おもてなし

前半は沿道の応援などが楽しかった。

おそらくそれぞれの地域ごとに町内会が出し物をしていて、お祭りのお囃子を披露してくれたり、おばちゃんお姉さんたちがフラダンスを踊っていたりした。幼稚園や小学校、中学校単位でたくさんの子どもたちが大声で声援を送ってくれる区間もある。

とにかくにぎやかでお祭りって感じで楽しい。

 

とくにアクアラインの上空に現れた自衛隊ヘリの編隊は圧巻であった。

アクアライン上はただでさえ眺めがよく、その日は晴れていたこともあって本当にすがすがしい、「わあ、本当に海の上を走ってるんだ!」って感動してしまうようなコースだったのだが、そこへ「ドドドドド」とかっこいい音を立てて5機や7機の編隊を組んだヘリコプターが空の向こうからやってくるのだ。

多分パイロットの方たちには見えていないだろうけれど、嬉しくて思わず手を振った。

 

アクアラインを降りると、この辺では盛んなのだろうか、ちょっとやんちゃっぽい若者たちが巨大な旗を振りながらよさこいを披露してくれる。その間をくぐるように走る。

 

また、ところどころ特産品を使ったエイドステーションが設けられていて飽きなかった。お土産物屋さんさながらの様相のため、つい立ち止まって物色してしまう。びわゼリーとびわケーキと、後半のエイドではゆずジュースをもらう。びわゼリーはちゅるんと食べられてちょうどよい。

私設エイドなのか、特産品エイドとは少し離れた場所に冷凍ブルーベリーを出してくれているテーブルもあったが、これまたおいしかった。溶けかかった冷凍ブルーベリーがシャクシャクして、疲れた体に染みるのだ。また食べたい。なんだかグルメ旅みたいなマラソンになってしまっている。

 

それから、おもてなし、というのとは違うけれど、コスプレした人たちがたくさんいるのも楽しい。途中、くまモンをしょったチョッパーや、音楽を流しながら走るバットマンに出会った。コスプレしてる人たちは沿道の注目を集め、「ちょっぱーがんばれー」などとたくさん応援してもらえるので楽しいだろうな。でも、絶対暑い。着ぐるみ着て20度の中を走るなんて考えられない。みんなよくやるわ。多分彼らは変態なのだろう。

 

 コースについて

ハーフの人も一緒くたに混ざってスタートするため、アクアラインを降りてハーフの人たちと別れるまでは、とにかく人が多い。前半はキロ6分半弱くらいで進もうと思っていたのだが、7分弱くらいで走るのが精いっぱいだった。とにかく右も左も前も後ろも人・人・人で、抜かしようがないのだ。

良いタイムを狙いたいなら、実力より少し前のほうからスタートすべきかもしれない。しかしお祭り的要素の強い大会なので、無理せずニコニコ走れるこのくらいが結局ちょうどよいのかも。

 

ちなみに、ハーフマラソンとコースが分かれてからの21キロは、コース上も沿道の応援も閑散としており、それはそれでつらい。目玉のアクアラインはもう終わっちゃったし、広がる景色は稲刈りの終わった茶色い田んぼばかり。選手は疲れ始め、袖ケ浦市内の応援はまばら……。苦行の始まりである。

ただにぎやかに笑って終わりたいのなら、アクアラインマラソンはハーフマラソンが断然におすすめである。

 

エイドステーションは、アクアライン上を除いて2キロおきくらいに設置されていて、十分すぎるくらいだった。全部で水をもらっていたらおなかがタプタプになるので、適宜スルーする。

この大会は、まだ暑い10月中に行うためか、アクアラインを閉鎖する時間帯の関係で最初の関門が早めに設定されているためか、完走率が結構低い。多分その対策でこんなにもエイドを設けているのだろう。

 

とはいえアクアライン上は5.5キロに渡ってエイドステーションのない区間がある。暑かったら水なしで5.5キロはつらいかな? と思い、念には念を、とわたしはペットボトルを入れたボトルポーチを身に着けて走ったのだが、結局必要なかった。橋を渡るのはまだ最高気温に到達する前だし、気持ちが高ぶっている中での5.5キロはあっという間なので、手ぶらで走っても問題なかったようだ。むしろ邪魔。

 

そしてコースのきつさについてだが、終盤まではずうっとフラットな道が続く。アクアラインは確かに登って降りて、にはなるが、まだ前半で足が軽いし海の上ですがすがしいしであまり気にならない。

問題は34キロ地点のあたりからやってくる二つの坂だ。2,30メートルほどの高低差を一気に駆け上がる。歩いている人も結構いた。時間がかかったら余計つらいと思ってわたしは歩かなかったが、終盤であの坂はたしかに歩きたくなっちゃうよね、という感じ。次臨むなら、ちゃんと坂道の練習もしておきたい。

 

さいごに

本当に楽しい楽しい大会だった。

スタートするまでは「マラソンって楽しいものだったっけ、どうだっけ」などと首をかしげながら来たものの、いざ走り始めるとわけがわからないくらいに楽しくて楽しくて仕方がなかった。

なんだか見るものすべてが新しいっていう、子どものころに還ったようなときめき。

特にアクアラインの上!

本当に海の上を、空の上を走っているようなあの感じ。

高速道路のため普段は車からでないと見られないその景色は、自分の足で踏みしめて見てみると、車の中からよりずっと大きく見えた。おなじみの緑色の標識も、真下から見上げるととてつもなく大きく迫力があった。

普段は道路情報を流しているのであろう電光掲示板もランナーたちにエールを送り、自衛隊のヘリも次々とやってきて歓迎してくれる。

思い出すだけでふふふって笑ってしまう。

 

本当に、なんであんなに楽しいのだろうね?

たしかにアクアライン降りたあとはわりとつらかったけども。

あのわけのわからない高揚感を味わえただけでも十分に元は取れた感がある。

 

次回も是非またエントリーしたい。

次までにはもっと胃を強くして、エイドステーションの特産品をもっと色々たべたい。できれば全種類。目指せコンプリート。 

 

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アップデート

月曜の朝、出勤しようと家を出て、手袋をはめた手で鍵をかけた瞬間、

 

 あ、アップデートされてる。

 

と感じた。

わたしが、アップデートされている、と。

よくわからないが、わたしの中のパーツがひとつだけ別のものに交換されたような。ちょっとだけ仕様変更されたような。そんな感覚がポッと生まれたのだ。会社へ向かう足が心なしか軽い。

 

前にもこんなことがあった。27歳の誕生日。あれは今回みたいな小さなモデルチェンジみたいなものでなく、全身リニューアルされたようなかなりくっきりした体験だったけれど。26歳のわたしを脱ぎ捨て、曇っていた視界が急に明るくなった。見えなかったものが見えるようになったような。世界にじかに触れているような、けれど誰からも傷つけられることのない強い皮膚を手に入れたような。怖いものがいくつも、いっぺんに消えたような。

昨日までの自分とは違うのだ。はっきりそう思った。

 

 

今回のアップデートはもっとささやかなものである。

それでも、先週の金曜日まで、同じように出勤していた自分とは確実に違っている。何かが変わったのだ。わたしが機械仕掛けのロボットならば、わき腹部分の内部の小さな歯車が一つだけ、知らないうちに交換された、そんな感じ。機能にほとんど変更はない。前までも不具合は出ていなかったし今回の部品も問題なく適合している。けれど、何か違うのだ。善い変化か、悪い変化かはこの時点ではわからない。でも少し心が軽い。

きっかけは何だろう。土日に行った東北でのボランティアか、金曜の夜にある人と話をしたことか。それともその両方か。いずれにしても人と触れ合う量の多い週末ではあった。あるいは、この数か月間で積み重なった何かがこの週末で臨界点に達しただけなのかもしれない。兆しはあったような気はする。

 

 

変化はいつも寂しさを伴う。

それは昨日までのわたしを忘れていくことだから。貧乏性のわたしは、どうしてももったいないと感じてしまう。かわいそうな昨日までのわたし。あんなに震えながら生きてきたのに、自分自身にまで忘れられてしまうなんて。

 

さびしい、かなしい。そう思って昨日までの自分を手繰り寄せようとするが、もう遅い。昨日までより少し高い場所にわたしはいるのだ。もう、昨日までのわたしは同じ空間にはいない。

 

さびしい、かなしい。微笑みながらつぶやいている。

さびしがりながら、もう次のアップデートが待ち遠しい。こうやってどんどん平凡になってゆくのだろう。さびしい、かなしい。こうやって心はどんどん軽くなってゆくのだろう。さびしい、かなしい。こうして今まで大切にしてきたものまで全部全部落としていって、次のわたしは、その次のわたしは、どんどん笑顔が増えていくのだろう。

 

さびしがりながら、次に進む。そしてどうか、増えていく笑顔が乾いたものではありませんように。そしてどうか、本当に大切なものが最後にきちんと残っていますように。

アメリカの大統領選を見て

てっきりヒラリーさんが勝ってアメリカ初の女性大統領が誕生するものと思っていたから、トランプ勝利の文字を読んだときは何かの見間違いかと思い、ぽかんとしてしまった。

日米同盟やら経済の問題やらいろいろ不安はあるけれど、率直な感想は、米国民よそれでいいのか? である。

 


最近こんなことが多い。今回のトランプ勝利も、6月の英国のEU離脱も、フィリピンのドゥテルテ大統領も、改憲を目指す日本の安倍政権も、素人のわたしには全部同じに見える。(フィリピンはちょっと違うかもしれない)

 

なんというか、戦後70余年で作り上げてきたものを否定するような、別の方向へ舵をきろうとしているような。

 

それは決して善いとか悪いとかの問題ではなく。世界全体がそんな気分なのだろう。よりよい未来が来るっていうからいろいろ我慢して協力してやったのに、損ばかりでちっとも恩恵に与れないじゃないかっていう、気分。ナショナリズムとは言わないんだけれども、市民の気持ちが内へ内へと閉じてきているような。

 

時代が変わろうとしているらしい。変化についていけないわたしはちょっとびびっている。けれどもこれだけの人が本気で支持したということは、これまで世界全体で作ってきたものがそろそろ限界だということなんだろう。古くなってあちこちガタが来ているのだ。

大学で「ソフトパワー」というものを勉強したのだが、あれもそのうち時代遅れになっていくのかね。なんだかさびしい。

 

ともかく、今はじっと見ていよう。世の中がどう変わっていくのかを。

手に入らないものもある、それが人生。でも。

学生時代はブログのほかにも時々日記をつけていた。

そこにはブログの趣旨に合わないことだったりごくごくプライベートな内容だったりを書き綴っていたのだけれど、そのほかにときどき思いついて「10年後のわたしへ」なる手紙を書いたりしていた。

わざわざ便せんにしたためて折りたたんでシールで止め、日記帳に挟んである。

 

たしか初めはアンジェラ・アキの歌に触発されたのだったか。


手紙 拝啓 ~十五の君へ~/アンジェラアキ(Cover)

 

最初の手紙は20歳の誕生日に書いたから、あと2年たてばそれを開く予定なのだが、手紙を開くのが少し怖い。

 小学生時分に学校行事で書く20歳になったわたしへ的な文章と違い、手紙を書いたことを大人のわたしは充分記憶しているし、内容すらなんとなく覚えているのだ。

 

たしかわたしは、希望の職に就いているか、努力を続けているかと書いたのだった。

たしかあの頃、「就いてみたいなあ」と思える仕事が、大雑把にくくって3つくらいあった。その業界でたとえスターになっていなくとも、片隅で元気に走り回っている自分を想像していた。何の疑いもなく。

しかし努力なんか途中でやめてしまった。もちろん、希望の職になどついていない。完全に怠惰の結果である。二十歳の自分にどう顔向けできようか。

 

けれども人生なんてそんなものなのかもしれない。

手に入らないものもある、それが人生。

なんてね。わたしもつまらない大人になったものだ。手に入っていないものが多すぎることには目をつむっている。

 

今ではたった5年後の自分すら思い描けない。

いや、本当のところは、思い描きたくないだけなのかもしれない。

 

今の場所で、「こんなところでのんべんだらりと時間をつぶすように生きていていいのだろうか」と思いつつも何も変える努力をしないまま「人生ってつまらないな」と愚痴ばかり吐きながら生きている自分を、思い描きたくないだけなのだ。

 

ならば、そんな未来が来ないように、そろそろ努力を再開すればよいだけの話なのだが。

 

 

フルマラソンを走っていて何を言うかと言われそうだが、わたしは趣味に生きるつもりはない。もし仮に趣味を人生の真ん中に置くのならば、それで稼げるくらいのめりこまなければ意味がないと思う。

家庭に生きるつもりもない。子どものころから結婚願望に乏しく、「幸せな家庭」の何が幸せなのかよくわからないのだ。いや、それは言い過ぎか。しかしどんなに家庭が幸せでも、それは多くても人生の半分でしかないように感じてしまう。家庭を持てば考えも変わるのだろうか。

 

生きたい人生はもっと別のところにある、という思い込みが拭えない。アラサーにもなっていまだに。

何の意味もないのに、「生きる意味」だとか大げさなことを考えてしまう性質なのである。

 

でもこのままじゃだめだということは確かだ。青臭い言い方だけれどこれは事実。第一仕事が面白くない。頑張ろうにものれんに腕押しというか、まったく手ごたえがなく虚しくなるばかりである。何らかの目的のために仕事をしているというより、仕事をすること自体が目的のように感じる仕事ばかりで。

 

だから5年後のわたしには、面白く仕事をしていてほしいと願う。

転職していてもいいし、楽しみが見出せるなら今の仕事を続けていてもいい。副業を始めてそれを頑張っている、でもいい。何なら無職でも構わない。

何でもいいから、ポジティブな未来に向かって生きていてほしい。このままじゃだめだと思いながら何もしない、という状態を抜け出して、迷走しながらでも1歩でも2歩でも歩みを進める、本来のわたしに戻ってきてほしい。

 

 

最近、勉強を始めた。

仕事帰りにカフェやファミレスに寄って、少しずつ本を読み進めている。

勉強していると少し安心する。なんだか懐かしい気分さえする。アラサーのわたしの中に微かに残っているハタチのわたしが、もっと、もっとだと嬉しそうに叫んでいる。

その声がいつまでもわたしを導いてくれることを、今は願うばかりだ。

 

 

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭に行ってきたよ!

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10月には瀬戸内国際芸術祭に行ったわけだが、テンションが上がってほかにも行ってみよう!という気になったので、茨城でやっている芸術祭にも行ってみることにした。

でも茨城ってめちゃくちゃ遠いよなー、どうやって行こう、向こうについてからの移動にかける時間を考えると日帰りは難しいかしら、などと考えながらホームページを見ていると、東京発のバスツアーがあったのでこれに参加してみることに。

 

kenpoku-art.jp

 

ツアー客は20人余りで、夫婦や友人同士の2人連れで来ている人と一人参加の客がほぼ半々。わたしの隣に座っていた女性は、小さなお子さんを旦那さんに預け、ひとりではるばる山形から来たという。

バスツアーに参加するのは初めてだったが、初めは静かだったバスが行程とともにだんだん和やかになっていくのが面白かった。

 

キュレーターさんが日立駅で乗り込み、解説付きで回る。後半はじっくり見る余裕があまりなかったけれど、おそらく今回のツアーのハイライトであろう御岩神社と海辺の作品はしっかり堪能できたのでかなり満足である。以下、写真メインでお送りする。

 

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御岩神社。

わたしは今回初めて知ったけれど結構有名なパワースポットらしい。

たしかに境内はなにか神聖な空気を感じる。本当に美しく清らかな森が守られていて、アートに興味ないひともこの神社は一度行った方がいい。茨城のポテンシャルすごい。

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そしてこの空気を具現化したような巨大なアート作品が杉の木立の中に出現する。

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薄いフィルムで作った作品で、光の当たり方によってピンクになったり緑に見えたりする。幻想的。神社の雰囲気とよくマッチしている。

風が吹くと六千枚のフィルムが一斉に揺れるのだそうだ。

 

次はビーチに向かう。

「落ちてきた空」

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空が描かれたパネルが砂浜に突き刺さっている。

晴れ渡った青い空とどこまでもまっすぐな水平線に、よく合っていた。

 

そこからほど近い入り江は人間の指が突きだしたヤドカリが。

解説によると、人間の人生そのものが仮のものだということを表しているのだとか。

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この作品はこんな美しい入り江の前に展示されている。

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江戸時代の豪農、穂積家住宅の庭には

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陶器で作られた作品が置かれていたり、

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明治時代に活躍した岡倉天心が作った庵、六角堂にはちょこんと朝顔(昼顔かも)や雑草が生えていたり。

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これもアート。

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ふふふ

かわいい。

 

日立駅すぐのシビックセンター前には″山行き”のバスが。車体の外にも中にも草が生い茂っている。

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バスの中にはウサギや亀や鳥がいて、覗き込むとウサギたちがぴょこぴょことはねていた。

 

こういった芸術祭は、自然の風景とか街並みとか、もともとそこにあったものを使ったり、その場所に溶け込むように作られているのが面白い。四角い美術館の白い部屋でどこかから切り取られてきたような作品を眺めるのとは違って、歴史や人々の営みを一緒に味わえる。

 

次回があったらまた行きたいと思った。

それまでに写真の腕を磨かねばな。

 

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死んだほうがいい人

今朝歯を磨きながら、大阪の天王寺駅で男が金属バットで女の子を殴ったという事件のニュースを見ていた。「目が合ってにらんできたから」というのが犯行理由だというのを聞いて、「ああいうのは頭が病気の人がやるんだから動機も何もないよなあ」とぼんやり考えた。

つまり「頭がおかしい人」という、自分と違う種類の生き物がやったのだ、と思ったのだ。被害者を思って恐怖と同情を抱いても、犯人に対して哀れみは感じないわけである。

 

わたしもずいぶんまともになったものである。

 

数年前、千葉県で連続通り魔事件があったのだが、当時そのニュースを見るたびに胸が痛んた。

わたしとその犯人、何が違うのだろうと感じて。

そしてワイドショーのコメンテーターや街頭インタビューの発言を聞くたびにわたしはますます精神的に追い詰められていった。

彼らは「まともな人」からのまともな意見として、その犯人を「頭のおかしい人」として扱い、理解不能だと言った。当然である。いま当時の記事をあらためて読むと、その犯人の言動は意味不明で、到底理解できない。社会から抹殺されるべき人物だろう。

 

けれども当時のわたしは、いつか自分もあんなふうになるのではないかと思ったのだ。世の中から逸脱して、周囲を傷つけるだけのモンスターに成り果て、そしていつか社会から抹殺されるのではと。そしてそんな私達を、誰が理解してくれるだろうと思った。

とても怖かった。

被害者がいるのに犯人に共鳴している自分が。わたしも同じ種類の醜い生き物なのだと感じた。

モンスターは生きているだけで世の中の損害となる。モンスターでも誰かに理解してほしいし誰かの愛がほしい、しかし周囲に害をなすモンスターが誰かから理解されるわけがないし、そもそも理解される価値がない。そういうわけだから孤独になるのは当然である。生まれながらに消えるべき存在なのだ。

だからモンスターには、苦しみしかない。

しかし、ではなぜわたしは生まれてしまったのだろう。

 

その事件より少し前のことになるが、インターネットでエゴグラムというものを知って、なんとなく試したことがある。するとその結果はほとんどcで、1個か2個bが出るくらい、というありさまだった。解説を読むと、「お前のような人間のクズは周囲に迷惑をかけるだけだから、極力他者とかかわらないで引きこもってろ」というような主旨のことが書かれていた。

わたしはそれほど醜い人間だったのだ。

 

 

いまエゴグラムをやるとオールbが出る。なんの面白味もないし性格が良いとも言えないが他人に迷惑をかけることもない、そんな人間になったということだ。

だからいまテレビで凶悪犯罪のニュースを見ても頭のおかしい人がやったことだとしか思わないし、ああいう人はきっと治らないからできるだけ長く塀の中にいてもらいたいと思う。

 

これは一応、わたしが成長した、ということでいいのだろうか。

しかし本当に?

あの犯人たちとわたしは、本当は地続きなのだ。それを忘れてはいけない。いつかまたあんな日々に戻らないとも限らないのだから。

わたしは生きていることをすこし反省する。