ほんとのほんと

一浪&三留したアラサーダメ人間が社会と自分とのギャップに半笑いで半ば諦めながら立ち向かって(?)ゆくブログ。  精神年齢は最近19歳になった。

清濁併せ吞む

前回の記事ではわたしは大変取り乱しているけれど、それは直前に2コ下の妹に会ったのがよくなかったのかな、という結論に至った。

 

わたしは母と話していると悲しくなることが多々ある。価値観が違い、そしてこちらの価値観をなかなか受け入れてもらえないからだ。その母と性格や価値観が最もよく似ていて母から最も信頼されている2コ下の妹は、だから母同様、時々わたしのネガティブな感情のトリガーになる。

わたしが実家から遠く離れた土地に一人で暮らし、滅多に(平均して年一回未満)家に帰らない理由である。大好きだけど、とても居心地が悪いのだ。

(本来妹は自分の価値観を人に押し付けるタイプではないのだけれど、今回は2泊3日でうちにいたし、その間わたしも仕事を休んでずっと一緒に過ごしていたので、どうもお互いうまく聞き流すということができなかった)

 

今後はこのことをよくよく頭に入れて行動しなければな、と反省。

わたしは彼女らと話すと高確率で取り乱したりモヤモヤを膨らませてしまう、そしてそれは本来のわたしではない、ということ。

 

いつか、「家族と言えども別の人間である」ということをちゃんと心で受け入れられて、穏やかな気持ちで過ごすことができますように。

母、妹に対してだけでなく、彼に対しても。現在のところ、彼の中にうちの母や妹に似た部分を見つけると、そのたび気持ちがぞわぞわしてしまうのだ。

でもだからって彼のそういう部分を全部消してほしいっていうのはたぶん間違っているんだろう。しんどいけど。

 

 

今日テレビで久々に篠田麻里子を見た。

彼女は割と好きな芸能人だ。背が高いし、ファッション誌の中のまりこ様は今でもかわいい。(背が高い女性が好きなのは、自分も背が高くてシンパシーを感じるため)

その彼女がインタビューで、「AKBの頃(4年半前)は世の中白か黒、正義か悪かだと思ってたんですけど、今はそうじゃないと気づきました、世の中グレーだと」というようなことを語っていた。

それを聞いて、そういうことなんだろうな、とあらためて思う。

 

世の中も人も、大抵のものが真っ白でも真っ黒でもない、グレーだ、というのはわたしも頭ではわかっている。が、まだ体がそれを受け入れるのを拒むときがある。

篠田麻里子はわたしより2つか3つ年上だ。

わたしも、2、3年後にはそんな風にいろんなものを清濁併せ呑んで受け入れられる日が来るのかなあ、と、今日はぼんやり考えた。

結婚についての感情の記録

悲しい気持ちでいっぱいだ。

これは好きになれない仕事のせいかもしれないし、彼のせいかもしれないし、離れて暮らす家族のせいかもしれない。何のせいかわからないけど、とにかく悲しい気持ちでいっぱい。

 

ここ数週間落ち着いていたように見えた感情が、最近急に再び揺れ始めて、仕事をしていても何をしていても「ああ結婚したくない」などと考えてしまう。

次に彼に会ったら言おう。4月の両家の顔合わせ食事会、延期してくれないかと。5月にでも籍を入れてしまおうと話し合ったことも、瀬戸内海で結婚式をしたいと言ったことも、ハネムーンはアルプスを見に行こうと言ったことも、いったん全部なしにしてください。

 

 

10月に上京してきた母に彼を会わせたら、母はそのあとしばらくずっと不機嫌な顔をして、「しゅうの小さい頃はあんたの感覚がまるで理解不能で子育てがつらかった」とか「あんたのことちゃんとほめて育ててあげられなかったね」などと子育ての反省をし始めた。彼のことも理解不能な人間だと思ったのだろう。そのあと私の性格をこんこんと批判したりして、全く笑わなかった。

困惑しつつも、母はわたしと根本的に価値観の違う人だからまあ仕方がないと思っていたけれど、年末に彼を実家に連れて行った時の感想をあとから父に聞いてみたら、父もどうしてかあまり喜んではいなかった。反対とは言わないものの不安そうな顔で「よくわからない」と笑った。

妹の彼氏のことは、二人ともいつも歓迎していたくせに。

 

確かに、彼は愛情深い人間ではないし感情豊かでもない。もしそうだったら、彼女がいるのに軽い感じでわたしと浮気ができたわけがないし、彼女に振られた後も、「たいして好きじゃなかったから全然さみしくない」などと笑えたわけがない。

 という当初の出来事を、両親の反応を見て嫌でもまざまざと思い出した。

 

彼と出会って、そして結婚を具体的に考えるようになってからというもの、彼の冷淡さが怖くなって、でも納得がしたくて、彼だけじゃなく世間一般の人はみんなそうやって軽々しく恋愛をしているのではないか、わたしが疎すぎるだけなのではないかと思い悩んだ末に、彼の承諾を得たうえでいろんな人とデートを繰り返すなど異常な行動をとったりもしていた。得るものは何もなかったけど。

そもそもそんなことを承諾などしてほしくなかった。

 

 

家族になれるんだろうか。

もちろん、家族になれると思った。だから結婚したいと言った。彼も、わたしが傷つくとわかったから絶対に浮気はしない、今後恋心が冷めていっても、結婚するからには他の人へ手を出したりしない、しゅうちゃんとこれまでの彼女は違う、と言う。でも、将来彼みたいな感覚の子どもが生まれたとしたら、わたしはどんな風に愛することができるのだろう。たぶん、できない。

 

このあいだ妹に会ったとき、「一人の人に執着してうじうじしてる人より、複数の男とデートして『どれがいいかな♪』とか言ってるぐらいのしたたかな女の子の方がカラッとしてて好きだ」などと言われた。彼女にはわたしが暗くて重い女に見えたらしい。

たしかにそういう小気味いいほどのしたたかさを持った女の子はかわいいよ、でもみんながみんな今日着てく服を選ぶように相手を選んで、捨てて、なんてやっていたらそれは気味が悪いよ。

けど実際は多くの人がそうやって軽く生きているようだ。(「軽やかに」と表現することもできるけど。)仕事も、付き合う相手も、割と簡単に決めて思い悩まないらしい。叶えたい夢も手に入れたい相手もそんなにないらしい。一方で「恋人がほしい」とか「結婚したい」というゴールは明確で、その枠を埋める相手を探すように生きているようだ。というか枠を埋め続けるように生きている人もいる。彼氏をキープしつつ水面下でもっといい相手を探す、的な。いくらでもすげ替え可能らしい。

 

これまでそんな話は他人事の笑い話として聞いていられた。でも彼が現れた。図らずも当事者(それもすげ替え可能な方の当事者)になってしまって、他人事じゃいられなくなった。最近じゃそういう話はもう気持ち悪くて笑って聞けない。

しんどい。

でもこの感覚をわかってくれる人が身近にいない。第一最も身近な人間である彼が共感してくれない。わたしのこの感覚は周りの女の子たちを見下すものだしそもそもわたし自身がそこまで清廉潔白な人間でもないはずだと批判されてしまう。

しんどい。

 

そしてこのしんどい気持ちを、モヤモヤを、執拗にぶつけてしまう。彼もわたしも声を荒らげて相手をののしるような喧嘩はしないけれど、ただひたすらにお互いを批判し反論し続けて気づいたら数時間、なんてことが何度かあった。

 

マリッジブルーなんだろうか。結婚したらこんな嫌悪感も不安もなくなるんだろうか。それとも、結婚してもずっとこの嫌悪感や孤独感がつきまとうのか。

 

 

すごくすごく混乱している。

両親が祝福してくれないこと。それでも彼のことが大好きで、好きなところをあげたら70個を超えたこと。でも彼に時々冷淡なほどのドライさがあること。付き合い始めてから普通の女の子たちの楽しそうな恋愛が汚く見えてしょうがなくなったこと。とは言えイライラがつのっていても、大抵は彼の顔を見るだけで心がへにゃっとなってネガティブなことが何にも言えなくなること。

 

傍から見れば陳腐な悩みなんだろう。

だけど今日のわたしの脳裏には前向きな気持ちよりも「わたし自身たいそうな人間ではないから結婚相手もその程度だよなぁ」という諦念が漂っている。幸せに向かっている感覚は乏しい。まあ、もともと幸せになりたいという感覚も乏しかったのだけれど。

 

 

簡単にブレーキを踏んでいいものではない。

もう退職願を出して、新しく二人で住むマンションの契約も済ませた。相手のご両親にも会ったし、わたしはぼちぼち同僚に「結婚のため転職する」と伝え始めている。

でもブレーキを踏まなきゃいけないんじゃないか。「すぐ離婚しそうだけどね」と自嘲しながら結婚の報告をしていていいのか。

 

 次に彼に会ったら言おう。わざわざ籍を入れなくてもいいじゃない。いま、大好き。だから一緒に暮らす。けれど、結婚はしんどい。だからあなたは、わたしをキープしながら、よそで本当の運命の人を探せばいいと思う。あなたと同じような感覚の、そう、服を選ぶように楽しげな恋愛をしてきたような女の子をね。

そうしたらわたしは、一人で本を読んで穏やかに暮らすから。幸い、今より給料も見栄えもいい会社に転職できるわけだし、女が一人で生きていくのに何の不安もない安定した仕事だしね。

 

そんなことを、今日は淡々と仕事を片付けながら延々考えていた。

 

 

でもさすがに、この数日で考えたことで安易に人生の決断をしてはいけないのではないかとも思う。わたしはいつも一時の感情で行動してしまう。しかも今日と明日とで考えていることが真逆、なんてこともしばしばなのだ。実際、彼と会うと、こんなに完璧な時間はないと感じることも多いわけで。

からしばらく、自分の感情を記録しておいて、浮き沈みを俯瞰したうえで判断しようと考えた。

というわけで、しばらくこのブログに感情の記録を残すこととする。ただそういう記事ばかりになっても気持ち悪いので、このエントリに追記するかたちで整理していこうと思う。本来ならネット上で公開すべき内容でもないが、誰かに見てもらうというモチベーションがないと続かないし、ちょっとでも客観的な視点を持ちたいためここで。

 

 

honto-no-honto.hatenablog.com

honto-no-honto.hatenablog.com

 

 

1月24日

10kmのランニングをした。

やはり昨日と今日とではもう気分が変わっていて、わたしの人生にとって結婚とか恋愛とかはわりと優先度が低いものだし、ましてや他人の恋愛観とか気にしてどうする、とも思えてきた。体動かすって大事。

ただ、その優先度の高いものがうまくいってないから、そんなことに気をとられてしまうのが現状なのだな。

それと、自分のような性格では一生結婚しないのだと思ってたという彼に、楽しい結婚生活を味わわせてあげたいなとも考えた。ランニングの効果すごい。

 

1月25日

先輩と社内恋愛の噂話をした。それで思ったけど、今どき3組に1組は離婚するのだから、それを見据えて勢いで籍を入れてもいいんだよなあと考えた。

また、当初の経緯について。彼に彼女がいると知ったのは、わたしが気持ちを伝えて、キスもしてもらった次のデートだった。2年付き合ってるから結婚の話をすることもある、と言っていた。悩みに悩んで、でも結局、「もう会わない」という選択肢は選べなかった。奪ってやるなんて毛頭考えず、「あぁ、遊ばれて終わるんだな」って思いながらの関係継続だったが、彼の、彼女への裏切り行為にわたし自身が加担したのは事実。だから、こんなので幸せになれるわけがないのだ。ならつらい結婚生活になるのは当たり前。そこを嘆いてどうする。

それにしても、彼の気持ちがよそへ向かっているのを察して自ら別れを切り出したその彼女は、とても賢い人だと思う。きっととうの昔に気持ちを切り替えて新しい生活をしているんだろう。わたしは、この1年ずっと、彼の言葉のなかに彼女の影を探しながら過ごしてきた。それ以前の女性のことはさほど気にならない。時期が被ってしまったその人のことだけが、会ったこともないのにずっと心にちらついている。これはきっとこの先も続くのだと思う。

 

1月26日

考えるのが面倒になって今日は特になにも考えていない。日曜のフルマラソンに意識が向かっている。

 

1月27日 午前

今度二人で住むことになったエリアが、実は彼の前の彼女が住んでいた街だということが分かった。

ほほぅ。

…わたしは急激に気持ちが冷めてきた。「ここに住んだら、あそこやあの店に二人で行ってみようね」、とウキウキと話していた自分がなんだか虚しくなってしまった。彼は今と変わらないペース(金曜の夜から日曜の夜まで恋人と過ごす)で彼女と会っていたというから、その街に随分思い出もあるだろう。

前の彼女さんは彼と付き合い始めて1年たったころに転職し、それを機に彼の住む場所から近いその街に引っ越してきたのだそうだ。

「でも新しい会社からはちょっと離れてて、別れたらここに住む意味ないって言ってたからもう住んでないと思うけど」とか彼は言うが、それも大事だけどそれだけが問題ではない。そんな風に彼女の人生を振り回してしまったことに何の罪悪感もないのか、と思うし、その思い出の街でわたしとの新生活を始めるということにも何も感じないのだろうか。それに、毎週そんなにべったり一緒に過ごしておいてよく浮気できるな、別れた翌週にたいして好きじゃなかったなんて言えるな、とちょっと怖くなる。

また、前の彼女とわたしは、図らずも同じ行動をとっている。彼と付き合い始めて約1年で転職、その街へ引っ越す。彼はこのことを気味悪く思ったりしないんだろうか。わたしには、前の彼女と同じように、あと一年したら彼が別の彼女を作る未来が見えてきた…。

 

1月27日 午後

中野信子の『サイコパス』を読んだ。彼のことが書かれているのではないかと思って。

読んだ結果、やはり彼はサイコパシー傾向が強いのではないかと思われた。人を傷つけることに対する罪悪感の乏しさや共感力の弱さ、他人は他人、自分は自分という割り切りが徹底していて冷徹なほど合理的なところ。

しかし202ページに「サイコパスの男性は短期的な相手なら誰でもよいが長期的な相手としてはサイコパスの女性を好む」「サイコパスの女性は短期的なパートナーとしても長期的なパートナーとしてもサイコパスの男性を好む」とあって、はっはーん、と思った。

母はわたしが小さいころからわたしの言動が理解不能で子育てに苦しんだと言っていた。もしもわたし自身にもサイコパシー傾向があるのだとすると、彼がこれまでの相手ではなくわたしをこそ結婚相手に選ぶ理由、わたしが彼に惹かれた理由がわかる。

同類なのだ。

honto-no-honto.hatenablog.com

honto-no-honto.hatenablog.com


わたしが社会の中でいつも感じている居心地の悪さは、わたしにADHD傾向があるからだと思っていた(片付けられない、先伸ばし癖がある、思い付きで行動する、など。ただし未診断)。

しかし本書ではADHDサイコパスの相関性についての言及があった。この二つには似た特徴があるのだそうだ(衝動的とか計画性のなさとか。あとたぶんルールや常識にとらわれないところも似ている)。わたしも、良心のない人間だったのだろうか。


1月28日

今週はお互い予定があって会えなかった。会えないとやっぱりちょっと会いたいなーと思う。


そういえば、今わたしの周りには夢や目標を語る女性が一人もいない。何歳までに課長になるとか、こういう実績を作りたいとか、いくらくらい稼げるようになりたいとか、独立したいとか、一旦仕事やめて留学に行くとか。大学までは周りにそういうタイプいくらでもいたのだけど、みんな疎遠になってしまった。今の周りの子達の話題はだから、専ら仕事の愚痴か恋愛、結婚の話というわけだ。アラサーにもなればみんな現実的になると言えばそれもそうなのだろうけど、それ以上にわたし自身がアラサーでも夢を語っていい立場にいないからこうなる。

夢を語れるのは現実が見えてない人か、夢を実現できる強い人だけ。戻りたいな、あの場所に。


2月1日

「考えるのに疲れたからしばらくあなたのことを考えない時間が欲しい」旨を伝えた。

完全な先伸ばしでなにも解決しないし、連絡を断ったところで全く何も考えないなんてことはできないが、少し心が軽くなった。ひとりで生きていける事実を再確認して問題の小ささを認識すると同時に、たくさんのLINEの言葉に少し安心する。

でもやっぱり戻ったらまたしんどい思考の堂々巡りに戻るんだろうな。

とりあえずひと休み。感情のスイッチを切る。


2月4日

知人の結婚式に行った。

わたしは愛嬌があって天真爛漫で陰口をひとつも言わない彼女のことが大好き。旦那さんもいい人オーラがすごかった。素敵な人は素敵な人と結婚するようにできている。

式から披露宴の二次会まで一日いさせてもらったが、二人の友人の多さには驚いた。何十人もの友人が代わる代わる新郎新婦のもとにかけよってワイワイはしゃいだり冗談を言ってじゃれあっていた。

丸一日ずっと楽しく、こんな素敵な結婚式ができるのは二人の人柄ゆえだなあと思った。

わたしが結婚式をしても、こんな風に全力で祝ってくれる人なんかほとんどいないと思う。下手すると一人もいないかもしれない。誰にも愛されてないことを確認するのが怖いから、やるとしても田舎の小さな式場とかで誰にも知られずこっそりやるしかない。

彼はわたしよりは友達もいるようだが、さすがに今回の二人ほどじゃないだろうな。彼も「せいぜい家族挙式で」と言っていた。人に愛されないのは自分から愛さないからだ。わたしたちは二人してあまり性格がよくないんだな、とあらためて認識した式だった。


2月14日

週末彼がうちに来た。

それであらためて痛感したのは、どれほどしんどくてももう抗えないのだということ。

何に、というと、恋に。我ながらばかばかしいにも程がある。泣きながら自分のしんどさを何時間も訴え続けながら、その間ずっと相手に抱きつきたくてたまらないのだから手に負えない。あほくさ。

とりあえずしんどさが会いたさを上回るまで、行けるところまで、行く、という結論になった。しんどくなったら家出しよう。それでも収まらなければ別れよう、という先伸ばし。何も解決はしていない。それと、わたしがもやもやを増幅させそうな話題はNGということにしてもらった。見たくないものには蓋を。

因みに彼の方は、今後わたしがもやもやをぶつけても全部自分が受け入れるそうだ。嫌なこと言われても、わたしがいなくなるよりはまし、とのこと。距離を置いたら、ちょっと優しくなっていた。

綿矢りさが好きなので勝手にふるえてろを見た

映画『勝手にふるえてろ』を見て良かったので勢いでスマホからブログを書く。
というか泣きすぎて映画館のトイレから出られないのだ。

他に泣いているお客さんはいなかったと思う。あれは変人が主役のラブコメディなのだから。泣く話ではない。私だけなぜかツボにはまって変な場所に突き落とされてしまった。
最初は変な深夜ドラマみたいだなあと思いながら見てたし最後までその印象は変わらなかったけどなんなんでしょうあの勢いは。やはり綿矢りさだから?

ひとりで見にいって正解だった。
隣の人に爽やかな笑顔で面白かったねとかなんで泣いてるの(笑)とか言われたくない。わたしの大事なものを紙くずみたいな価値のないとるに足らないものだよって言われるようだからだ。そんなこと本人がよくわかってるのにわざわざ他人の表情で確認したくない。


今からこの足で新幹線に乗って実家に帰る。彼氏を連れていく。わたしたちは結婚をする。幸せすぎて今のわたしは無敵だと思う。
でも一緒になってもこうやって誰にも開け渡せないわたしだけの場所があってそれは何があっても守って生きていかなくちゃと思う。思った。

お休み宣言

結局風邪で3日半休んだ。
2日休んだのち出勤したのだが全然治っていなかったようで、デスクで死にかけていたら上司に「帰った方がいい」と言われてその日は早退した。うちに帰って熱を測るとまだ38度あった。そして次の日も。

5日目からは熱も下がったので普通に出勤したが、とはいえ咳と鼻水がその後も一週間以上続いて、愛想笑いもできない日々が続いていた。


体力の低下はダイレクトに気力に影響する。
わたしは完全に転職活動をやめてしまった。戻りたかった場所、つまり学生時代までいたようなコミュニティを諦めた。
諦めるということが、これまではあんなに難しかったのに、今、こんなにもあっさりと諦められた。もうどうでも良くなったのだ。疲れてしまったのだ。
そして風邪が治りきっても、気持ちは戻らなかった。なにかの糸が切れてしまったらしい。

精神面は乱高下を繰り返している。高より下が圧倒的に多いけど。普段はポーカーフェイスを装っているが、毎日訳もなく寂しくて寂しくてたまらない。よるべがない感覚があって、本ばかり読んでいる。子どものころから、心にすきま風が吹きすさぶ感覚がずっとある。これはもう幼稚園のころから。でもごくたまに隙間が埋まるような錯覚を持てる時があって、だからどうしてもその瞬間を求め続けてしまうのだけど、求めても求めても、これはもう埋まりきることはないのだ、ということが最近段々わかりつつある。一生こんな自分探しが続く。そういう性格に生まれついたから。

よるべ、は、自分の外側には確実にない、ということもわかりつつある。よい仕事に就いている、とか、彼氏に優しくしてもらう、とかでは脆すぎるということ。外に作ろうとすると際限がない。どんなに持っていても足りないと感じる。自分の中に作るしかない。

どうやって? と思ったらひとつだけ手段を知っていた。子どものころから好きだったことを再開するのだ。
今はもう死んでしまってミイラのようになっている夢をわたしは引っ張り出して、この子とうまく付き合っていこう、それがわたしの人生だ、と風邪のウイルスにまみれながらぼんやり決意した。


そんなわけで、ちょっと時間が惜しいので、しばらくブログは書かないようにしようと思う。
いやホントは、あれもこれも要領よくやれたら一番いいのだが、どうしても好きなことより楽な方に流れてしまう性格なので、「一区切りつくまでブログは書かないぞ」とちょっとここで宣言してみる次第なのである。

風邪を引いた

台風の接近とともに風邪を引いた。それも特大のやつだ。

 

月曜の朝は何度か吐いて、頭痛もひどかったので会社を休んだ。

普段の片頭痛では、どんなにひどくても吐けば次第に楽になったし、その楽になっていく過程は癖になるくらい安堵感に満ちていているものだったけれど、今回は「なにかバチが当たったのかな」と自分の過去を意味もなく反省してしまうほど治まる気配がなく、ぐったりし続けるしかなかった。

夕方、吐き気が少し治まったので病院へ行ったが、自転車で5分ほどのその場所へ向かうだけでもしんどかった。職場は目の前なのだから車通勤の同僚にラインして送り迎えしてもらおうかな……などという甘えた考えがよぎったものの、彼女も残業があるだろうにこんなこと頼めないな、と考え直して一人で向かった。

頼ってみてもよかったのだろうか。わたしはいつも人との距離感が分からない。いつも遠ざけすぎていて、たまに不必要に近づきすぎてしまう。

 

片道3時間近くかかるところに住む恋人が平日に駆けつけてくれるわけもなく(いや、彼のことだから休日だったろうと駆けつけてくれたかどうかわからないが)、一人で過ごした。誰かに心配してほしかった。10分ほど母に電話した。この世でわたしのことを無条件で心配してくれるのは結局お母さんなのだと思う。

 

今朝になっても熱が下がっていなかったので今日も仕事を休んでしまった。

頭痛はなくなっていたので頑張れば出勤できただろうと思うが、行ったところで「やることないな。データ整理でもするか」な一日となることは目に見えているので行かなかった。今日もずっと寝ていて、夕方やっと快復してきた。まだ咳と鼻水と関節の痛みはあるが、明日は仕事に行こう。仕事がなくても席に座っていないとお給料が出ないのだからしょうがない。

 

体がしんどいとどうしても考えることを放棄してしまう。

例えば今やっている転職活動のこととか。

学生さんに混じって受けていた4月採用の仕事の内定は一つ確保したけれど、結局同じ業界、誰でもつける仕事、替えの利く仕事、の内定なので、他に可能性はないものかと転職サイトに登録して今は普通の転職活動をしている。が、うまくいっているとは言い難い。

やめてしまおうか。何もかも。体調管理すらまともにできないわたしに、他に務まる仕事なんかないよ。

などとぼんやり考えていた。

 

わたしの転職先が確定したら彼はプロポーズしてくれるそうである。つまりわたし次第なのだそうだ。

けれどわたしは幸せになる自信がなくて、彼の心が離れていく未来しか想像できなくて、「結婚のための転職」という色合いが強くなる、大したステップアップにはならない再就職に二の足を踏んでしまう。ダメだった時に、ちゃんと自分で自分の人生に責任が持てるだろうか、と。

 

暗い部屋で、変な時間に天井を眺めていると、何もかもが遠くなってくる。少しでも仕事のヒントがほしくて同業者の集まる交流会に参加するわたしも、より活躍できる場を求めて転職活動をするわたしも、フルマラソンを走るわたしも、彼との旅行を計画するわたしも。すべてが遠い。

むしろ、こんな風に誰からも見つからない場所でうずくまっている自分の方が、本来のわたしなんじゃないかと思えてくる。


このままずっとここで眠っていたい。

現実から目をそらして、やさしい夢だけ見て眠るのだ。

成し遂げたかったことも叶えたかった夢も昔の友人のことも全部忘れて。

 

夏の終わり

もう夏が終わりますね

今日行った美容院で、美容師さんが窓の外を眺めながらしみじみ言った。日が落ちるのが大分早くなった、と。
続けて、
「別に夏が好きってわけじゃないのになんでか夏の終わりって切なくなりますよね、あれってなんでなんでしょうね」
とも。

確かに、夏の終わりは特別だ。
他の季節なら、例えば秋から冬へは、関東以南だとただなんとなく気温が低くなってくだけでさほど季節の変わり目を意識しないし、冬から春へ、春から夏へ、だと、むしろ新しい季節が「やってくる」感覚の方が大きい。
夏だけだ。はっきりと季節が終わっていく寂しさがあるのは。

日が短くなって、日中はまだ暑いのに夕方はずいぶん涼しい。どこかでひぐらしが鳴いていて、網戸越しに隣家の親子の会話が聞こえる。
なぜだか子どもの頃を思い出す。うちもあんな風に会話をしていたな、湿った涼しい風が入る、お母さんがテーブルにカレーを並べる、裸足で歩く廊下のひんやりした感触、夜7時、外はもう暗い。届かない過去。実家に帰ったって、子どもの頃に帰ることは永遠にできない。そんなことを思い知る。

どうして夏の終わりだけこんな気分になるのだろうか。今年もなにもできなかったな、などと毎年思うのだろうか。大人になった今ではもう夏休みなんて関係ないのに、今の時期になると訳もなく少し焦ったりしてしまう。
無邪気でいられた幸せな時間はおしまいだよ、と誰かから言われているような感じ。
f:id:honto-no-honto:20170827212257j:plain

それでも現金なもので、スタイリングが終わると、鏡の中には少しだけきれいになった自分がいて、それを見ると単純に気分が上がった。
やっぱり、この美容院は魔法の場所だ。
美容師さんにお礼を言ってお店を出る。駅へ向かう足取りは少し軽い。
これから大人っぽい色のリップを買って、秋を楽しんでしまおうじゃないかとそんなことを考え始めている。
もうすぐ誕生日がくる。20代最後の年は、きっといい一年になる、そんな風に思う。子ども時代に別れを告げて、今度こそちゃんと大人になるんだ、などと。

答えのない世界

 

積読本を消化しようと何気なく手に取った一冊。

いま世界の哲学者が考えていること

いま世界の哲学者が考えていること

 

タイトルの通り、昔の偉大な哲学者でなくて、現在の哲学の潮流を紹介してくれる本だ。

まだ第1章しか読めていないが、その中で非常に胸に刺さった箇所がある。それは、20世紀後半の「ポストモダン」の哲学の考え方。ざっくりいうと、「真理はどこにも存在しない」という考え方だ。

 

それまでの哲学は、万人が認めるような真理や規範を追い求めていた。けれど、実際にはそんな「絶対的な真理」などないのだ、という。

この世界は、言語によって構築されている、らしい。(言葉があるから世界を認識できる、という意味だと思う。これを言語構築主義と言う) となれば、言葉が違えば見えている世界、つまり現実は異なってくる。ということになるらしい。

言葉が違えば「真理」も違う。歴史や文化が違えば「善悪」も違う。すべては相対的なもので、つまり「真理はどこにも存在しない」ということになる。

 

それは寄る辺がないということだ、とわたしは考えた。

その考えを突き詰めれば、人それぞれ育った環境や時代が少しずつ違うのだから、「本当に正しいこと」は各々異なるということにならないだろうか。わたしの「真理」は、わたしの外部にはどこにもないということにならないか。正しさの判断を誰にも頼れないということにならないだろうか。

 

いや、わかってはいた。そんなもんだと。わかってはいたけれどあらためて認識すると少し怖いしかなり心許ない。

以前も書いたが、わたしはいつも心のどこかで「絶対的な唯一の解決策」「今すぐ白黒つけてくれる答え」を探してしまいがちな人間だ。 honto-no-honto.hatenablog.com

たとえば、高校の倫理の授業でプラトンイデア論を習ったとき、とても心惹かれたのを覚えている。

それはこの世界に(正確にはこの世界の形而上に)、絶対的な『正解』がある、と言う考え方だとわたしは解釈した。

なんて安心なのだろう、と思った。

どこかに確固たる正解があるのなら、わたしたちは、世界は、それをただ純粋に追い求めれば良いということになる。

どこかに「善のイデア」があって、「正しさのイデア」があって、「美のイデア」があるのなら、それへ少しでも近づこうとする努力によって、わたしたちの人生は、そして人間の営みは、すべて肯定される。

そんな風に思った。

 

でもそんなものはない。絶対的な正しさなど。ないから、ひとつずつ自分で探していくしかない。

しかも、探して、見つけたものを、「それが正解だ」と丸をつけてくれる人などいない。「正しいかどうかわからないがひとまずこれを『正解』としておこう」と保留にしながら見つけた答えを拾って、また次へ進む。その繰り返しで「わたしにとっての現実」がようやく成り立つ。仮の“正解”はいつまでも保留のままである。

 

途方に暮れてしまう。あるのは圧倒的な孤独。

この世界が向かうべき「正解」があると信じてそれを探しながら、想定される「正解」に向かって歩みを進めていくのと、どこにも「正解」などないと知りながらそれでも何かにつけて「正しさ」を求められ、その都度「正しそうなもの」をとりあえず選んでふらふら彷徨い続けるのと。

後者のほうがしんどい。心許ない。誰もわたしに丸をつけてくれない。誰かの答えに丸をつけてあげることもできない。荒野の中で、ゴールのない、コースすらないマラソンを走るよう。

 

想像すると寂しさで押しつぶされそうだ。

誰とも答え合わせができないのだ。この先ずっと、どこまで行っても。

ひとりぼっちの旅が続くだけ。

 

 

 

本はまだ第2章を読み始めたところ。2章から先は、ポストモダンのその後、現代の哲学の考え方が紹介されていくようだ。

けれど、どこまで読んだって、もうどこにも「真理」はないのだろう。

でもそれでも読んでしまう。わたしとは、人間とは、世の中とは、世界とは、現実とは何かを知りたくて。

どこにも絶対的な真理などないことに気づいていながら、それでも探してしまう。本の中に、仕事の中に、誰かとの会話の中に、そして自分自身の思索の中に。

 

それがきっと、死ぬまで続く。答えなどないとわかっていてもやめられない。それがわたしの性なのだ。これは間違ってはいないだろうかと、常にびくびくしながら、恐る恐る、歩みを進める。